蜜柑の木を触る!(11月8日)
2023年11月8日 11時08分11月になったというのに最高気温が30度近い日もあって、季節がわかりにくい日が続いています。でも、暦のうえでは今日から冬。短かった秋を、草花に触れて感じてみたいと思い、同僚のA先生に尋ねてみました。すると「校内には秋の草花はほとんど咲いていない」とのこと。がっかりしていると、「蜜柑(ミカン)がなっていますよ!あれを触ったら秋を感じられるのではないですか?」と言われました。
蜜柑の木を、私は何度も何度も触ったことがあります。母の実家で蜜柑を作っていて、ちょうどこの頃、親戚一同が集まって、収穫(蜜柑ちぎりと言っていました)をやっていたからです。使う鋏がとても特徴的な形をしていました。柄は真っ直ぐでなく、尖端に近づくにつれて内側へ弧を描いていました。この2本の柄を握りこむようにして持って使います。刃はとても短かったです。その鋏を使って、実にできるだけヘタが残らないように切り取っていきました。その頃、私の視力はかなり乏しくなっており、叔父さんや叔母さんに「この木をやって!」とつれて行かれた木の枝を探っては、実を見つけ、鋏で切り取って、何かの植物で編んだような軟らかい籠に入れていきました。枝は木の幹から分かれると、枝分かれを何度も繰り返しながらだんだん細くなっていきます。そして、地面に向かってたわんでいました。その枝の途中に、1個あるいは2個3個と実が付いていました。実はとても軟らかく、皮は薄く、表面がみずみずしく、とてもおいしそうでした。収穫も終わりの方になると、みんな気がせくのか、私のことを忘れて、早く終わらせようとしています。そうなると、私はやることが無くなり、既に収穫を終えた木を触って、時間を過ごしていました。枝から出た葉柄の先に葉が付いていました。葉はけっこう分厚く、全体的に乾燥していて硬く、無理矢理折り曲げようとすると割れてしまうのではないかと思ったものです。大きさはあまり覚えていません。どちらかというと丸に近い紡錘形をしていました。表面を凸にした緩やかなカーブをしていて、ふちっこがさらに強く裏面に向かってカーブしていました。表面と裏面を比べると、裏面の方で葉柄や葉脈がよくわかりました。葉柄から尖端に向かって開くように葉脈がありました。
50年ほど前の記憶を呼び起こし、久しぶりにあの木の形、葉の形、実を触れるんだなあとうきうきしながら、A先生に校庭の蜜柑の木につれて行ってもらいました。そして、びっくり!私の記憶の中にある蜜柑の木と、かなり違っていました。残念ながら、木の幹を触ることはできませんでした。枝分かれの関係で、幹に近づこうとすると枝を傷つけてしまう可能性が高いとのことなので、諦めました。手元に伸びてきていた枝を触ると、枝分かれを繰り返しながらだんだんとたわんで地面に向かって垂れ下がっています。ここは記憶と同じです。そして、枝の途中から実が1個または2個付いています。ここも記憶と同じです。ところが、実はけっこう硬くて、「蜜柑ですよ!」と言われていなかったら何の実かわからないほどに、記憶とは違っていました。葉も大きく違っていました。けっこう薄く、全体的に湿っていて軟らかく、反対方向に折り曲げるとそのとおりの形になりました。記憶と全く違います。どちらかというと細い紡錘形をしています。記憶と違います。表面の中央が底になるように、縁がカーブしていました。記憶の中と反対です。
たしか、母の実家で作っていたのは温州蜜柑だったと思います。校庭にある木は、A先生によると、マンダリンではないかということでした。温州蜜柑とマンダリン、広い意味ではどちらも蜜柑のようですが、葉と実を見る限り、私には全く別物に見えました。けれども、A先生は「蜜柑の木」と呼んでいました。私には全く別物に思えるのに、先生には同じグループと認識できるのです。それはなぜでしょう?
不思議に思って、関東地方の盲学校に長く勤めていた友人に、電話で尋ねてみました。すると、「木全体の様子、それと実の様子を見て、これは蜜柑だろうと思うかなあ?」と言っていました。たぶん、触覚で識別する私と、視覚を使って識別するA先生や友人とでは、情報量が違うのでしょう。もちろん私の方が少ないのです。では、どうすれば、触覚を通じてもA先生や友人と同じような識別ができるようになるのでしょう?
私は、次の二つが大切と思います。
まずは、可能な限り、全体を触る努力をすることでしょう。今回は諦めましたが、幹を触り、枝分かれの様子をもっと全体的に触る必要がありました。じっくり取り組めば、枝を傷つけることなく幹に近づけたかもしれません。幹から末端へと触っていけば、校庭の木と思い出の木との共通点がもっともっと見つかったかもしれません。時間はかかるでしょうが、その努力を惜しんではいけないと思います。
次に、たくさんの木を触ることでしょう。私の記憶にある蜜柑の木は、母の実家で育てていたものだけで、それ以外にはありません。A先生や友人は、それこそ散歩をしているだけでも、何本もの蜜柑の木を目にすることでしょう。そして、蜜柑の木のバリエーションが広がるのでしょう。私には、A先生や友人以上に、直接木に触る機会を増やさなければなりません。そうしたら、蜜柑の木の中にもバリエーションがあって、これも蜜柑!あれも蜜柑!とわかるようになるのだと思います。片っ端から出会った木に触っていると、ずいぶん時間がかかりそうですね。何だか非効率なような気もしますが、それでもいいじゃないかとも思います。私は、この方法で識別するのですから!他の人と比べて、効率がいいとかわるいとかを考えても仕方がないのです。それに、見るよりも触ることの方が分かりやすい事柄もあるはずです。具体例をいくつも挙げることは、残念ながら今の私にはできませんが、それは私がまだ触覚の優位性に気づいていないからです。効率の悪さや情報量の不足など、触覚で識別することのデメリットを数えるよりも、メリットや楽しみ、その具体例を探し、数えた方が有意義だと思いました。
ネットで調べてみると、実がなった蜜柑の木の枝は、地面に向かってたわんでいますが、収穫を終えた枝は天に向かって立ち上がるそうです。これは驚きでした。蜜柑の木の枝は、いつもたわんでいると思い込んでいました。校庭の蜜柑の木も、そろそろ収穫の時期のようです。収穫を終えた頃に、枝を触りに、また出掛けてみようと思った1日でした。